曳山の創設は、文政3年(1820年)に始まると思われます。
建造に着手した直接の動機は、鎮守の神明宮(現在の伏木神社)が波崩れの災いに遭って、文化10年(1813年)に現在地へ遷座した機会に求められます。
しかし、山の福神に、天明元年(1781年)の銘があることや、「やま」ができる以前は、祭日に福神を船問屋の座敷に請じ祀ったという伝承が残されていることなどから、計画はもっと早く、安永の頃(1772年〜80年)にまで遡ることができると思われます。
当時、伏木浦は、享保年間(1761年〜35年)に完成をみた加賀藩の港湾制度を受けて、八軒問屋の成立に代表されるように、藩米の回送や北海道に至る北日本沿岸諸港との交易によって、海運・商業活動がひときわ盛んな時期を迎えていて、明和4年(1767年)には、渡海船119艘を持つまでに発展していました。
また、明和・安永の頃は、近隣の放生津や城端などの諸町で、競って曳山を新・改造する気運が盛り上がっていましたから、曳山創設の計画が動き出すのは、むしろ必然ともいうべき状況下にあったのです。さらに、文化・文政(1804年〜29年)に一時期を画した芸術的な環境も、それに拍車をかけたと思われます。
伏木の曳山は、このような状況のもとで、「子孫万代」「延寿長生」「宝来招福」等をテーマに、順次完成したものです。 |